FC2ブログ

ハイスペック・バカ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
    --:-- | Top

年を取るってこういうことね(打ち上げ花火、下から見るか、横から見るか感想)


 卵から孵った雛は最初に見た動くものを親だと認識するそうですが。
 最初に見た作品というのは、その人にとって(少なくとも同一ジャンルの中で)相当なウェイトを占めるという事はよくあります。原作厨とかファースト厨とか、色々な言われようはありますが、やはりそれくらい重要だという事です。
 音楽でも名曲は様々な人がカバーする事が多く、古くからある名曲だと最初に聞いたのがカバー曲だったりして、その人にとってはカバー曲の方が原点になっちゃったりすることも多いのではないでしょうか。
 僕も結構頭の固い方ですので、なかなかアレンジとかカバーとかには興味を持てなくなっちゃうタイプなのです。
 そういう人が書いている文章であるという事を最初に念頭においておきたいと思います。

 久しぶりに模型完成品をアップしていこうとブログを再開した所でいきなり緊急特番的に書き始めたのは、とある映画を見たからなのですが、映画の感想としては実に客観性に欠け、感情にまかせて書いている部分が大きいです。なので冒頭でお断りを入れておかないといかんのではないかと思ったのです。あくまで個人的な感想であります。まあ、いつも言ってることではありますけど。

 あまりに長くなってしまったので、ここらで畳んでおきます。
 当然のようにネタバレ前回ですのでご注意ください。
 どうでもいいけど新しいブログ投稿画面、明らかに前のほうが使いやすいぞ。

 観てきた映画は「打ち上げ花火、下から見るか、横から見るか」です。
 僕はこの作品には多少の思い入れがありました。
 初めて見たのはテレビ放映時の1993年。「If もしも」というドラマの中の一作として普通に放映され、普通に消化されていく作品の中の一つだったのですが、僕はこの作品にすっかり魅了されてしまいました。
 うだるような暑さの、蝉の鳴き声のやまない、夏の日。
 大人びた少女と小柄な少年の対比。
 子供が子供として足掻く一生懸命な姿。
 日常からちょっとはみ出した非日常。
 フェティッシュな画作り。
 今にして思えば、後に僕が好きな作品だといって挙げるものは、かなりこの作品に含まれる要素が影響しているような気がします。
 そこまで気に入っておいて映画化されていた事は知らなかったりする辺りは、まあ僕もお子様であったのですが。

 好きな作品であればあるほど、時間が経過すれば思い出として美化されてしまい、実際に観てしまうと幻滅してしまうなんて事がよくありますが、この作品に関しては全くそんな心配は無用でした。
 経年による技術的な進歩や変化が顕著なアニメや特撮と違って実写ドラマは見た目の変化が少ないというのもあるかもしれませんが、それでもやはり時代を感じすぎて古くさくて観ていられない映像というのはあります。
 今年に入って(今思えばアニメ化が決まっていたからなんでしょうけど)CSで久しぶりに放映されたものを観て、当時の魅力がまるで色あせることなく、むしろ当時の感動に「圧倒的なリアリティを持ったノスタルジックな風景」という要素が追加されてしまい、余計にこの作品が愛おしくなってしまいました。
 何が凄いって奥菜恵さんの魅力が一切衰えていない所。髪型やファッションなどに当時らしさはあるし、化粧の仕方なども今風ではないのですが、それでもあの魅惑的な表情は色あせませんでした。
 おっさんって大昔のアイドルを今でも好きだとか今でも可愛いとか言うじゃないですか。でも全盛期の姿を知らない僕らは現在の姿を見て「どこが?」と思い、さらに当時の姿を見て「この衣装www髪型www」とか笑うじゃないですか。

 僕も立派なおっさんになりました。

 可愛い・美しいの基準って時代にかなり左右されるので、その時にリアルタイムに生きていないとその皮膚感覚が全くわからないんですよね。多分二十年後の若者が、2017年のAKBで人気の子を観ても可愛いと思うかどうかは保証出来ませんよね。

 という訳で最近になってDVD買っちゃったんですよね。これ書いてる途中でBD出た事を知ったのでそっちも買いましたよ、ええ。
 実写映画の方は、テレビ放映当時の「現在」をかなりそのまま映しているので、朝にひらけ!ポンキッキをやっていたり(多分撮影時はまだポンキッキーズじゃないと思う)、スラムダンクが大人気だったり、家でスーパーファミコンのスト2をやっていたりと色々と今観ると大変懐かしい光景が広がっています。携帯電話やインターネットもないし、女性の衣装や髪型が大分今観るとアレです。うん、あんな感じでした。麻木さんが生徒からセクハラを受ける役というのがまた。
 別に「ノスタルジー」を狙って作ってる訳じゃないんですよね、これ。テレビドラマだし、むしろ1993年当時の田舎の(といっても千葉だけど)現状を綺麗に切り取ろうとしてたと思うんですよ。だから良い所とかを無理矢理美化しないし、ありのままの姿が映ってる。服装なんかもあまり気取らない、お金を無駄にかけないようなリアリティのある服装なんじゃないかと思います。
 それでいて画作りとしてはとても洗練されているので、古さを魅力に変換出来るだけの力を持っているのだと思います。

 まあ、これくらいサクッと語れてしまうくらいに原作が好きな僕が、アニメ版の打ち上げ花火、下から見るか、横から見るかを観てきたらどうなったかというのが本題なのですが。

 アニメの脚本を担当された方が、原作の大ファンなのだそうで、何十年も前の作品を今あえて作ろうというのだからと期待して観に行ったのです。「君の名は」に続けというような雰囲気がちょっとあったのは何だかなーと思ったりはしてましたが(そういう作品じゃないと思ってたけどプロデューサーが同じという事もあって周囲の期待はそんな感じだったらしい)、それはそれ、僕は僕と思って。

 脚本担当の方と僕は、あの原作で好きだった部分が違ったみたいです。

 この辺が難しい所で(今日も映画評論家が自分の無知を棚に上げるちょっと残念な評論を書いて炎上してましたが)、これはあくまで「僕が好きだった原作をこんなアレンジしてくれちゃってもう」という感想なんですよ。割と八つ当たりというか、言いがかりです。
 アレンジされた部分が個人的に気に入らないよ、という、それだけの感想です。
 だからこれは「作品の質の問題」ではありません。すでに僕は「原作と比べてどうなのか」という部分で評価してしまっているので、全くもって主観的な、感情的な、腹の底から湧き上がる、怒りとも悲しみとも違う複雑に入り組んだ大理石の模様のような何かを両手に宿らせてキーを叩いているだけなのです。
 作品が(これから書き進める僕が気に入らなかった部分を根拠として)駄作だとか言うつもりは一切ないです。シャフトらしいアニメです。特に映像表現に関しては昨今のアニメ映像の中でも上位に食い込めると思います。
 ただ、僕はこの作品のアレンジの方向性が好きじゃなかったのです。残念ながら。

 細かくどこが違うとかどこが気に入らないかを書くべきではないのかもしれないなと思って、ここで一旦エディタを閉じたのですが、まあここまで書いておいて何が気に入らなかったのか書かないのも、なんだか具体性に欠ける意見を言うだけ言って逃げる人みたいなので、書いておきます。当時あの作品が好きだった人が同意してくれるかもしれないし、「いやこの作品はあくまで2017年に作成されたものなのだから別物としてみるべきだ」という意見をくれるかもしれないし、それはどうでもいいです。僕はこう思った。読んだ人はこう思った。それでこの話はおしまい。佐倉魔美くんのパパもそう言ってます。

 という訳で書いちゃうよ。

○なぜ中学生なのか。
 原作は全員小学生です。役者も奥菜恵以外多分小学生です。ヒロイン(の中の人)だけが中学生という所にこの作品の魅力の一端があるのですが、それはさておきアニメでは全員中学生です。アニメなので中の人は全員大人になってますが、それはさておき中学生。
 監督が、中学生の方が自然だというような事を仰っていたような気がしますが、年齢設定を変えた割には言動が原作通りなので、かなり違和感が出ます。小学生なら「異性と付き合う事を同性の友人にバレる事の気恥ずかしさ」とか「そもそも女子より男子との友情をとる」とかの行動が自然に映るのですが、中学生としてそれらを観ると必要以上に子供っぽさを感じてしまいます。
 また、ヒロインのなずながよく口にする「駆け落ち」についても、思春期を迎えた少女や少年が言うそれと、それ以前の小学生が口にする、どこまでその意味を理解しているのか観る側が計りかねる状態では、かなり受け取り方が変わってしまいます。あんまり微笑ましく感じないんですよね。
 花火が丸いのか、平たいのか実際に観てみようぜ! 冒険だぜ! というのも、中学生がやるかしら、というか君ら誰一人部活とかやってないの?とか、色々と中学生の夏休み像としては不自然に感じる部分が多かったです。

○いつの時代なのか。
 微妙に現代っぽくアレンジしつつ、少し懐かしい光景を取り込むことで「今ではない、少し懐かしい感じのする、どこかの時代」という光景は、なんとなくシャフト作品っぽい小洒落た空気も手伝って成功しているといえば成功しているのですが、2016年の中学生の携帯電話普及率が六割近いという状況で、別に明確に懐かしい時代だとも言っていないあの世界観は、どっちつかずな印象があります。
 液晶テレビでファミコンのゲームが動いていたり、今時あまりない円筒型校舎だったり、自転車があんまり古さを感じなかったり、90年代後半から00年代にかけて流行したキックスケーターがあったり、意図的なのかもしれませんが、時代性はちぐはぐで、良い意味でも悪い意味でも時代を感じません。
 これはまあ、当時の映画も前述した通りに別に懐かしい景色を映すのが目的ではなかったわけなので、アレンジとしては妥当なのかもしれませんが、どうせなら2017年の作品とした方が潔かったかなーって思ったりはしました(新房作品は総じて時代感覚がおかしくなる世界観なのですが)。

○もどり玉?
 アレンジの中で最も顕著なのがこれ。原作では一度だけ、心の底から後悔した部分で何故か時間が巻き戻る(そして巻き戻った事は誰も認識していない)のですが、アニメ版では何度かやり直します。巻き戻る際に主人公の典道が前の記憶を微妙に残しているため、シュタインズゲートにおけるタイムリープのような状況になっています。しかももどるためのアイテムが存在し、後半に至ってはそのアイテムの存在と効能を典道は完全に理解して使いこなしています。
 45分の作品を90分に引き延ばすための方策として、後半に何度も失敗とやり直しを繰り返すような展開に変えてしまったのですが、このアレンジによって打ち上げ花火という作品が「最近流行のタイムリープ恋愛もの」という全く予想しなかった「ありがちなジャンルに押し込まれてしまった」のです。
 元々ドラマでも元に戻った事に対して全く説明はなかったため、これを視聴者に納得させるためにも何らかの理由付けは必要だったのかもしれませんが、このアレンジによって作品の方向性が言語化出来てしまった事は、作品の魅力の一つを削いでしまっていると僕は感じました。
 言語化された概念は、それが故に理解を促進させる事が出来るため、より多数の人に訴求できるようになるというメリットはあるのですが、同時に拡散されることによる陳腐化と伝言ゲーム的な劣化が始まってしまうため、むしろ「わからない」というミステリアスな魅力に頼った方がよい場合があったりすると思っています。今回のは特に。

○典道がんばってるけど
 前述したように、失敗する度に典道は手元に都合良く落ちるもどり玉を利用して窮地を脱しようとします。それはそれで良いのですが、原作の魅力の一つであった「何を考えているかわかりかねるが放っておけない少女に振り回されつつも奮戦する少年」という役どころが一掃され、「好きな少女のために道を切り開く少年」という形に変貌しました。もともと原作ではなずなを好きだと名言したのは祐介の方で、その祐介すら「好きなのか?」と典道に直接聞かれた時にははぐらかしてしまうような、そんな小学生独特の恋愛観だったため、実は恋愛ドラマ的な部分はあまりありません。
 これもまた、お互いを好きだと明確に意識していない(少なくとも誰も明言していない)状態での微妙なスキンシップやコミュニケーションが原作の魅力だと感じていた僕にとって、全て「中学生のうまく表現出来ない恋愛模様」に書き換えられてしまった事は、ちょっと残念だったのです。
 なんだかわかりにくいので具体的な例を挙げると、プールサイドでの、なずなの虫を捕ろうというシーン。アニメでは典道の緊張と興奮をことさら強調して描いていて、彼女に対する意識、女性そのものに対する意識というのが思春期のそれらしくなっています。原作では「女子の肌に触れるという事への未熟な性的興奮を覚えるよりも、その状況を他の男子に見られる事の方を恥ずかしいと感じる心が勝利してしまう」という描き方がされていて、僕はこっちの方が好きでした。
 ついでに言うと原作における奥菜恵だけ実年齢が高いせいで典道となずなの身長差が不自然にでかい所も僕は大好きだったので、この辺が調整されてリアルな身長差になってしまった事も、やはり残念でした。声も小柄な少年の割に異様に低いしね。全員声変わりしちゃってるんだよね、アニメ版は。つまり思春期に明確に突入してるのです。

○ファンタジーな世界に
 タイムリープする事で世界線がずれるというよりも、タイムリープした段階で別な世界に一人だけずれてしまっていたような感じになっていました。尺を伸ばすためにアニメ独自の世界観にしたかったんだろうなと思います。この辺は好みの問題だろうなあと思いますが、多分君の名はの二番煎じを願った人には受けは悪いんじゃないかなって思いました。僕もこのアレンジによって、この作品が「過去にあり得たかも知れない甘酸っぱい思い出のねつ造としての記憶」から「(美しい)フィクションの世界を見たという単なる記憶」になってしまったように感じた事は、少しさみしく思いました。
 ただ、そのアニメならではの美しい表現は、見て良かったと素直に思えるほどのクオリティであった事は間違いありません。

○なずなの母親の出番が多い
 原作では(ホント原作厨ですみません)最初のルートにしか登場しないなずなの母親、随分頑張ってなずなを連れ戻しに来ます。さながらシザーマンのごとく。
 母親の活躍が、そのままアニメ独自の「何度も戻ろうとする」事の発端となっているので、必要な事ではあるのですが。
 また、アニメではかなりの部分を台詞で説明します。なずなの生い立ち、行動の動機など。なずなが突然カケオチしよう、と考える理由が「母親がカケオチした事があるから」という事で行動の妥当性を持たせている所は理解出来ます。
 原作では実はなずなの親が離婚して引っ越すという事(アニメ版では再婚する事で引っ越すのですが、あんな立派な家手放しちゃうのかよってちょっと思ったりしました)を、最後まで知らないんですよね。それがあの、後述する独特のラストに繋がるんですが、アニメ版ではなずなが全部説明するために、典道はそれを何とか阻止しよう、せめて今日だけは最後まで一緒にいようと頑張るわけです。さらにその意思を明確になずなに伝えてしまいます。
 典道はどう頑張ってもバッドエンドになる事を承知で頑張っているんです。
 原作における典道は完全に振り回されるだけの子で、何らかの決断を下すことも、意思決定をする事で事態が変化する事もほとんどなかったりします。後半ルートの自宅で祐介から逃げ出すシーンも、バスに乗るシーンも、電車に結局乗らないシーンも、全てなずなに引っ張られてばかり。
 アニメでは祐介から逃げ出すシーン、なずなの母親から振り切って電車に乗って逃げるシーン、全て典道が主導です。主人公の行動パターンが真逆となっては、すでに作品のコンセプトが逆転してしまう気がするのですが、アニメ版のアレンジの仕方だと、どうしてもこうせざるを得ないであろう事は理解しています。

 (原作における)なずなが典道を引っ張るシーンで一番好きなのが、駅で着替えてさあ電車に乗って駆け落ちだ、切符も買わなきゃ!という流れの後、実際に電車が来たら「え? 電車?なにそれ。ほらバス来たから帰ろ!」とあっさり駅を後にするシーンです。この下りにおけるなずなの何考えてるのかわからないっぷりは本当に見事で、あっけにとられる(しかし言う事を聞く)典道が最高です。
 このシーン、あまりになずなのリアクションがおかしいので、実はここで「電車に乗らなかった世界に(今度はなずなが願って)戻ったのでは?」と思ったりもしました。電車に実際に乗ったところで、待っているのは補導か、何らかのトラブルに巻き込まれるかといった所で、あまり明るい未来があるとも思えませんし、それを知ったなずなが強く願って巻き戻し、あっさり帰ろうとした、というのもありえない話ではないかなと思います。

○ラストは蛇足気味(ただし原作は投げっぱなしすぎ)
 何度もタイムリープを繰り返し、最終的に別れが待っていることはわかっているけども二人は結ばれ、そして新学期を迎え、なずなのいない出席確認のシーンで、アニメ版は終了します。何故か典道もいませんが、これは多分、好きに解釈しなさいよという事だと思います。なずなを探しに行ったとか、どこかで一人で気持ちの整理をしているとか、まあ色々と。確実に幸せに二人が暮らしましたという事はないかと思います。
 道中があまりにアレンジされたアニメ版と原作ではここが大きく違います。
 原作ではカケオチとして駅まで行った挙げ句に何故か踵を返してバスに乗って小学校に行き、プールに二人で入って遊ぶ(海に入ろうとするアニメのシーンはここのアレンジとなるわけです)という流れになります。そしてまたね!と二人が別れた後、典道は浜辺の花火会場で担任の先生と一緒に花火を下から見て、そしてエンディングとなります。
 横から見ようと灯台にいった祐介達も、灯台に着いた時には既に花火は終わっていたのですが、たまたまこの時の花火を見る事が出来るという構成になっています。時間軸としてはとても良くまとまっています。

 原作は原作で、「え、そこで終わりなの?」と言いたくなるような終わり方をします。人物の感情の決着は一切描かれず、この後迎えるはずの「なずながいなくなった日」についても一切言及なし。タイトル通り「花火を横からと下から見る」ところで終わり。タイトル通りなのだから文句を付ける方がおかしいのかもしれませんが、今まで頑張っていた人たちが結局どうなったのかが描かれないのは消化不良と言えない事もありません。アニメ版とは違った意味で、その後を想像してみてくださいという形。
 僕はこの描かれない部分が大好きです。
 結局バッドエンドにしかなりえない状況下において、「それでも最善を尽くそう」なんていう、いわば綺麗事を言う事もなく、本当に絶望しているなずなの心境と、何も知らない典道や祐介たちの心境が、たまらなく愛おしく感じます。
 この作品は、誰も幸せにならない、バッドエンドしかない作品なのだと思っています。絶望の中でひとときの現実逃避を、もしかしたら好きだったのかも知れない男子と共に過ごす少女と、まだ好きという感情の正体も機微もわからない、思春期に入ったばかりの、子供から脱却できない少年の、たった一晩の夢なのです。
 アニメではこの夢であるという部分を、どこまでが現実でどこまでが空想なのかを曖昧にした美しい空間として描いていますが、それでもなずなと典道はそれぞれの感情に一定の決着を見せています。その上でさらになずなのいなくなった結果までも描いているので、まあこちらの方が納得感は大きいとは思います。
 ここは、恋愛映画として描いているのか、そうでないかの違いなのでしょう。

 という訳で、原作厨の僕としては、この映画に諸手を挙げて賛成という気分にはなれませんでした。
 前半は原作と同じアングルであえて描くカットがあったり、Forever Friendsが流れてくれたり、原作では名前のなかった担任教師の彼氏が原作の役者さん(光石研さん)の名前が使われていたりと、かなり原作へのリスペクトを感じる部分もあるのですが、いかんせん原作で好きだった部分がのこらず粉砕されている事が残念でなりません。
 
 しかし原作を知らない人が見る分には、そしてアニメが好きな人が(ストーリーを自分で読み取るタイプの人が)見る分には楽しめると思いますんで、おっさんのたわ言はさておき、自分で見て判断して頂きたいなと思う次第であります。



    01:03 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top
Comment







(編集・削除用)


管理者にだけ表示を許可
Trackback
http://vile.blog31.fc2.com/tb.php/1129-f419a109
プロフィール

毒蝮ワン大夫(又はヴァイ)

Author:毒蝮ワン大夫(又はヴァイ)
平和とHORIを愛するナイスガイ。
わりと衝動のままに生きるので日記の方向性が定まらなくて困る。

最近の記事
最近のコメント
カテゴリー
月別アーカイブ(タブ)
最近のトラックバック
FC2カウンター
ブログ内検索
リンク
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。