ゼルダの伝説ブレスオブザワイルド感想。かつてのゲーム少年へ。
昔はゲームが好きだった。
発売日にゲーム屋へ走り、雑誌で新作情報を読みあさり、寝る時間より遊ぶ時間の方が大事だった。
友達とゲームの話をして、ネットで語ったりして、ネットゲームがメインになっていくと、文字通りゲームが生活の中心に陣取っていくようになった。
年月を経て、色々と環境が変化していく事で、次第に購入する本数は減り、新作ゲーム機を発売日に買う事もなくなり、「欲しいソフトが出たら買おう」と言っていたらいつの間にか次の世代の機種が出てきたりする事もざらに発生する。この辺の数年近いスパンが平気で許容出来るようになっている辺りも年を感じる。
パッケージソフトを買う事もなくなり、たまにスマホゲーをダウンロードして遊んでみるけど長続きもしない。遊びたいのはこういうのじゃない。手触りのない画面を指で滑らせるんじゃなくて、リアルのボタンやスティックを押したりする事による物理的リアクションこそがゲームの醍醐味なんだ、などと思っても、実際にゲーム機のソフトはボリュームが凄くて買ってもクリア出来る気がしなくて怖くて買えない。ついでにゲーム機をポンと買えてしまうほどの財政的余裕もない。
国民的行事だなんて言っていたドラクエも、最新作のナンバーがいくつになったのか時々忘れてしまうし、自分自身がどこまで遊んだのかも記憶が定かではない。
ゲームが暇つぶしのアイテムの一つに成り下がってしまった。
あれほどまでに生活の主軸として、根幹として、アイデンティティとしていたゲームが、何となくやることがない時の手遊びの一つになってしまった。
ゲームの情報を自発的に漁ることもなく、雑誌を買うどころかゲーム系情報サイトを定期的に見ることもない。時折ツイッターのタイムラインに流れてくる面白い話題や懐かしいゲームの話題には反応するけれど、そこから先への進展はない。
ファミリーコンピュータが登場した時に小学生だった、いわゆるファミコン世代の少年達は、今頃はアラフォーと呼ばれる世代になっているだろう。ゲームの世界が目まぐるしく進化していく過程をリアルタイムで追い続けていった世代。ポケモンやスマブラ発売当時にはもう大人になってしまっていて、本来の楽しさを享受しにくかった世代。ネットゲームの進化と衰退を見守ってきた世代。
散々馬鹿にしてきたスマホゲームをポチポチ遊ぶ世代。
ゲームに対する興味が薄れたというよりは、それ以外のファクターが増えすぎて集中出来なくなってしまった。自分たちが熱中したゲームの様式が既に失われて、今のゲームも楽しいけれど、ちょっとした違和感が心の隅で小さなとげとなって刺さっている。
「電脳コイル」というアニメで、バーチャルペットをさも実在するかのように、触っているかのように扱う子供達と、それを理解出来ない大人達という図式があって、自分たちは前者であり続けると思っていたのに、気がつけば後者と同じ感覚になってしまっている。
嫌いになった訳じゃない。
いつか遊ぼうと思っている。
ドラクエだってちゃんと遊ぶつもりだ。
しかし結局遊ぶのはスマホのゲームだけ。一日に一時間も遊べばいい方で、この年になってようやく高橋名人の言いつけを守れるようになってしまった。
そんな状況でも、PVを見るだけで面白そうだ、本当に遊びたいと心から思えるゲームが一つだけあった。これは長いゲーム歴の中でも、きっと本当に未知の体験を与えてくれるゲームだと、感じられるゲームがあった。
それがゼルダの伝説 ブレスオブザワイルドだった。
ゼルダの伝説BOWは、いわゆるオープンワールドタイプのゲームで、どこにでも行けて、なんでも出来るゲームだという。PVでは草むらで戦うリンクが、草を燃やして火をおこし、そこから発生する上昇気流で飛び上がって上空から敵を弓で狙い撃つという、アニメのワンシーンのような格好良い戦闘をこなしていた。
これがムービーシーンではなく実際のプレイシーンだというのだ。
アクションRPGといえば16×16ドットのキャラを半分ずらしてぶつかる戦闘から始まって、ついにこんなところまで来てしまったのかと素直に驚いた。
今作のゼルダの伝説は本当に色んな事が出来て、一つの問題に対して複数の解決方法が用意されているという、自由度の高さが売りになっていた。
この「自由度が高い」とか「どこでもいける広い世界」とか、こういうワードは昔なら心躍るものだったのだけど、今となっては「最後まで遊べないんじゃないだろうか」という不安要素しか自分の中から出てこなくなってしまっている。
最後にエンディングを見たゲームが何だったのか思い出せないような状況で、またそんないつ終わるのかわからないゲームなんて、とてもとても。
でもちょっと触ってみたい。何しろゼルダだし。長年付き添ってきた友人の一人みたいな感じもあるし。
当時はNintendo Switchは品薄にも程がある状況で、地元の量販店では抽選販売を続けていた。
予約と違って抽選のエントリーなら、まあ当たった時にだけ買えるのだから、運がなければ諦めれば良い。そう思って気軽にエントリーしていた。
一度目の抽選では見事に外れ、そのまま再エントリーしてみたら、次の抽選で当たってしまった。
そんなにあっさり当たるとは思っていなかったのだけど、当たってしまったのだから買うしかない。
それならかねてからやってみたかったゼルダの伝説を買おう、と本体と一緒に購入。
電源を入れて、諸々の設定を終わらせて、ゼルダの伝説をプレイし始めた。
予想以上の手応えと、遊びやすさと、世界の深さに驚かされた。
膨大なボリュームのゲームでありながら、極短時間のプレイでも満足出来る密度の濃さ。
祠という小さなダンジョンでの、今までのシリーズを踏襲するようなパズルゲーム的謎解き。
時のオカリナ以来の伝統「注目」を利用した本格的な戦闘アクション。
噂通りの何でも出来る自由度。
細かい感想や内容については今更なので捨て置くとして、結論から言えば僕はこのゲームのエンディングを見ることが出来た。
祠は全てクリアし、真のエンディングを見るための要素は全て制覇して、半年近くかかったけれど、スタッフロールを眺めることが出来た。
半年近くかかったのは、一日辺りのプレイ時間が短い事と、平日にほとんど遊べない事が原因で、実際のプレイ時間は百数十時間といった所じゃないだろうか。
とにかく、昔ゲームが好きだった人にこそ遊んで欲しいゲームだ。
テレビの2チャンネルで表示される荒いドット絵と、スピーカーから流れるPSGのピコピコ音に魅入られていた僕らがあの頃思い描いていた理想のゲームの一端がここにある。
目の前にいるキャラに真っ直ぐ剣を突き出す事しか出来なかった頃から、頭の中では格好良い戦闘が繰り広げられていた。その時に出来たらいいなと思っていた事が、このゲームでだいたい出来る。
少しゲームになれてきた頃に考える、「ゲームのお約束」を破壊するようなプレイも、このゲームでならだいたい出来る。
祠の中の小さなダンジョンは、クリアまでの所要時間はとても短く、switch本体の特性もあって空いた時間に少しずつプレイする事が容易になっている。
段々とゲームする事に億劫になっていく要因の一つは、僕はこれを何度も書くが「想定される最低プレイ時間の長さ」によるものが大きい。電源を入れてから遊び始めて満足する、またはセーブまでの一区切りにかかる時間が二時間を超えるともう遊べない。せいぜい一時間が良い所で、欲を言えば30分以内がベスト。
今の日常で「連続して二時間以上ゲームをする」ほどの余裕はない。特にアクション性の高いテレビゲームは他に何かしながらのプレイが難しいので、本当に集中する必要がある。そういうゲームを、場合によってはリビングのテレビを自分一人が占拠するという状況も含めて長時間プレイする事が要求されると、遊ぼうという気がそもそも起こらない。
携帯ゲーム機やスマホゲーは、この辺の「隙間」に遊べるようになっているのが大変助かる。他の事をしながら遊べるし、遊ぶ時間そのものも短くてもいい。テレビゲームはこの辺がネックになって、どんどん遊ばなくなっていくという人は多いと思う。
しかしゼルダの伝説はストーリーを追う事が遊びの主軸になっておらず、楽しみ方を自分で選べるため、短時間でも十分満足出来るようになっている。最低プレイ時間は30分程度だ。電源を入れてから切るまでの時間で、30分あれば満足出来る。
今日は料理に精を出してみよう。
今日はいくつかボコブリンの集落に攻め込んでみよう。
今日は祠を一つ見つけ出そう。
今日はまだ走ったことのない街道を馬で走ろう。
今日はまだ登ったことのないあの山に登ろう。
この辺が一つでも出来れば、それで満足出来てしまう。
操作性の高さ、インタラクションの気持ちよさ、戦闘の適度な緊張感など、触っているだけで楽しいと思える事がまず第一にあるので、何をしていても楽しい。崖を登っているだけでも楽しいし、馬に乗って走っているだけでも楽しい。
視界に入る全ての景色にたどり着けるという事、そこに立ち入る事が出来る事が楽しい。
大抵の行動に対して、何らかのリアクションやご褒美が存在する事が嬉しい。
今作のゼルダの伝説は、ゲームが何故好きだったのかという事を、本質的な意味で思い出させてくれるゲームだと思う。
開発者としては「アタリマエを見直す」というスローガンの元、今までのシリーズのお約束やゲームとしての常識を打ち破る事を目標として作ってこられたというような話をどこかで読んだ。
これはつまり「ゲームってどうして面白いんだろう、何が面白いんだろう」という根源的な疑問に対して真正面から真摯に向き合ったという事でもあると思う。
そして出来上がった今作は、ゲームのプリミティブな面白さを剥き出しにしたままで、今の時代にマッチしたゲームのカタチを形成してしまっている。剥き出しにしたまま、という所がミソであり、恐るべき所でもある。
ボリュームの豪華さや、見れば見るほど感心する深い世界設定など、外側の「額」もそれはそれは見事な出来映えなのだけれど、ひとたび触ってみれば、一番に感じるのは「リンクを動かしていることそのものの面白さ」であり、強烈な「俺、ゲームしてる感」である。こんなにも短時間で濃密な、それでいて原始的な「遊びの楽しさ」を味わえるゲームはなかなかない。走り回っているだけで楽しいとか、幼稚園児が初めて遊んだゲームの感想かよと思うような事が、大人になった今になって味わえるとは思わなかった。
今でも現役のゲーマー諸氏にしてみれば、FPSなどの短時間で濃密なプレイ時間を味わえるゲームは他にいくらでもあるしオープンワールドゲームなんてもう山ほどございますよ、すでに鮮度は高くありませんよと反論したくなるだろうとは思うが、すでに現役ではない、新世代ゲーム機も家になく、ミニファミコンやミニスーファミにはしゃぎ、有野課長の活躍を楽しみにしているようなロートルは、そこまで新しいものに貪欲に挑むほどの気力も財力もないのだ。
ドラクエの最新作さえ発売日に買わなくなったようなポンコツゲーマー気取りは、新しい情報を貪欲に仕入れる事も出来ず、ゼルダの伝説という長年連れ添った戦友が示してくれる新たな地平を見るのが精一杯なのだ。
ついでに言うと濃密すぎるプレイ時間はそれはそれで疲れる。
プレイ時間の大半を極度の緊張状態で過ごさなければならないゲームまで突き進めてしまうと、それもちょっと敬遠したくなる。あとは「不正解」が蔓延したゲームの世界にも飛び込みたくない。
そもそもこのゲームには「不正解」という概念がほとんどない。何をしても良いというのは、何かをしてはいけないという事もない、という事だ。このゲームの開発者は、徹底してこの点に関して責任を取ってくれている。防寒着をどうやって手に入れたのかを何人かの経験者に聞いてみれば、その責任の取り方の一端が見えてくると思う。
効率を考えるなら選択肢は狭まる部分は当然あるだろうが、そもそもそういうゲームじゃないので、何をしてもいいし何かをしなくてもいい。ネット上でのゲームコミュニティでよくある「不正解に対する不快感」が蔓延することによる居心地の悪さはここにはない。一生懸命非効率な事をしてもこのゲーム内では許容される。答えにたどり着くのに正解がないのだから、不正解であるとか取り返しのつかない事であるとか、そういう事に怯える必要がない。本当の意味で「好きに遊べば良い」というゲームは、実はそんなに多くないんじゃないだろうか。
また、ゼルダの伝説BOWは緊張感と難易度に関してもさじ加減が実に見事で、特にゲーム全体の難易度に関しては最後に至るまで極端に上がっていかないようになっている。システム的にやれる事が全て出来るようになるまでの難易度の上がり方も急ではないので十分ついていけるし、そこからクリアまで、つまりラスボスまでは実は難易度はほとんど上がらない。多分一番難易度が高いのは「一つ目の神獣攻略」だと思う。神獣にはどんなギミックがあって、どんなしきたりがあるのかがわからないので、かなり戸惑う人が出ると思う。そこに至るまでにどれくらいの祠をクリアしてきたかにもよるのだけど。
ラスボスに至っては、そこまでプレイしてきた人なら適度に楽しく戦える程度の難易度で、何度も再挑戦してようやく倒せるとかそんな難しいものではないので、人によっては拍子抜けという人がいるかもしれない(難易度の話であり、その存在感とかシチュエーションに関するものではない。ついでに念のため書いておくとQTEの類いは一切ないので安心して頂きたい)。多分その前に陣取ってる敵の方がよほど厄介だが、そこは戦わずに進む事も出来るので自分で難易度の調整をすると良いだろう。多分このゲームで一番強いのはラスボスじゃなくてそいつであり、僕は未だに苦手だ。
日常の暇つぶし以上、修行未満の絶妙な位置にゼルダの伝説BOWは存在する。
小さな満足を繰り返しているうちに、そのボリュームに尻込みしていた僕ですら、最後の敵を倒し、エンディングを見る事が出来たのだ。途中で「もうハイラルを放浪する剣士の生活をしていれば満足ですよ、ええ」とか思いながら目的もなくウロウロするプレイを結構な期間続けてしまっていた僕ですら、クリア出来たのだ。
昔ゲームが好きだったよ、という人にこそ、このゲームを遊んで欲しい。
きっとクリア出来ると思う。最後まで遊べると思う。
数々のゲームをクリアもせずに途中で放置しまくっていた僕ですらクリア出来たのだから。
何年かぶりにゲームをクリアした記念に、思ったまま綴ってみた。
発売日にゲーム屋へ走り、雑誌で新作情報を読みあさり、寝る時間より遊ぶ時間の方が大事だった。
友達とゲームの話をして、ネットで語ったりして、ネットゲームがメインになっていくと、文字通りゲームが生活の中心に陣取っていくようになった。
年月を経て、色々と環境が変化していく事で、次第に購入する本数は減り、新作ゲーム機を発売日に買う事もなくなり、「欲しいソフトが出たら買おう」と言っていたらいつの間にか次の世代の機種が出てきたりする事もざらに発生する。この辺の数年近いスパンが平気で許容出来るようになっている辺りも年を感じる。
パッケージソフトを買う事もなくなり、たまにスマホゲーをダウンロードして遊んでみるけど長続きもしない。遊びたいのはこういうのじゃない。手触りのない画面を指で滑らせるんじゃなくて、リアルのボタンやスティックを押したりする事による物理的リアクションこそがゲームの醍醐味なんだ、などと思っても、実際にゲーム機のソフトはボリュームが凄くて買ってもクリア出来る気がしなくて怖くて買えない。ついでにゲーム機をポンと買えてしまうほどの財政的余裕もない。
国民的行事だなんて言っていたドラクエも、最新作のナンバーがいくつになったのか時々忘れてしまうし、自分自身がどこまで遊んだのかも記憶が定かではない。
ゲームが暇つぶしのアイテムの一つに成り下がってしまった。
あれほどまでに生活の主軸として、根幹として、アイデンティティとしていたゲームが、何となくやることがない時の手遊びの一つになってしまった。
ゲームの情報を自発的に漁ることもなく、雑誌を買うどころかゲーム系情報サイトを定期的に見ることもない。時折ツイッターのタイムラインに流れてくる面白い話題や懐かしいゲームの話題には反応するけれど、そこから先への進展はない。
ファミリーコンピュータが登場した時に小学生だった、いわゆるファミコン世代の少年達は、今頃はアラフォーと呼ばれる世代になっているだろう。ゲームの世界が目まぐるしく進化していく過程をリアルタイムで追い続けていった世代。ポケモンやスマブラ発売当時にはもう大人になってしまっていて、本来の楽しさを享受しにくかった世代。ネットゲームの進化と衰退を見守ってきた世代。
散々馬鹿にしてきたスマホゲームをポチポチ遊ぶ世代。
ゲームに対する興味が薄れたというよりは、それ以外のファクターが増えすぎて集中出来なくなってしまった。自分たちが熱中したゲームの様式が既に失われて、今のゲームも楽しいけれど、ちょっとした違和感が心の隅で小さなとげとなって刺さっている。
「電脳コイル」というアニメで、バーチャルペットをさも実在するかのように、触っているかのように扱う子供達と、それを理解出来ない大人達という図式があって、自分たちは前者であり続けると思っていたのに、気がつけば後者と同じ感覚になってしまっている。
嫌いになった訳じゃない。
いつか遊ぼうと思っている。
ドラクエだってちゃんと遊ぶつもりだ。
しかし結局遊ぶのはスマホのゲームだけ。一日に一時間も遊べばいい方で、この年になってようやく高橋名人の言いつけを守れるようになってしまった。
そんな状況でも、PVを見るだけで面白そうだ、本当に遊びたいと心から思えるゲームが一つだけあった。これは長いゲーム歴の中でも、きっと本当に未知の体験を与えてくれるゲームだと、感じられるゲームがあった。
それがゼルダの伝説 ブレスオブザワイルドだった。
ゼルダの伝説BOWは、いわゆるオープンワールドタイプのゲームで、どこにでも行けて、なんでも出来るゲームだという。PVでは草むらで戦うリンクが、草を燃やして火をおこし、そこから発生する上昇気流で飛び上がって上空から敵を弓で狙い撃つという、アニメのワンシーンのような格好良い戦闘をこなしていた。
これがムービーシーンではなく実際のプレイシーンだというのだ。
アクションRPGといえば16×16ドットのキャラを半分ずらしてぶつかる戦闘から始まって、ついにこんなところまで来てしまったのかと素直に驚いた。
今作のゼルダの伝説は本当に色んな事が出来て、一つの問題に対して複数の解決方法が用意されているという、自由度の高さが売りになっていた。
この「自由度が高い」とか「どこでもいける広い世界」とか、こういうワードは昔なら心躍るものだったのだけど、今となっては「最後まで遊べないんじゃないだろうか」という不安要素しか自分の中から出てこなくなってしまっている。
最後にエンディングを見たゲームが何だったのか思い出せないような状況で、またそんないつ終わるのかわからないゲームなんて、とてもとても。
でもちょっと触ってみたい。何しろゼルダだし。長年付き添ってきた友人の一人みたいな感じもあるし。
当時はNintendo Switchは品薄にも程がある状況で、地元の量販店では抽選販売を続けていた。
予約と違って抽選のエントリーなら、まあ当たった時にだけ買えるのだから、運がなければ諦めれば良い。そう思って気軽にエントリーしていた。
一度目の抽選では見事に外れ、そのまま再エントリーしてみたら、次の抽選で当たってしまった。
そんなにあっさり当たるとは思っていなかったのだけど、当たってしまったのだから買うしかない。
それならかねてからやってみたかったゼルダの伝説を買おう、と本体と一緒に購入。
電源を入れて、諸々の設定を終わらせて、ゼルダの伝説をプレイし始めた。
予想以上の手応えと、遊びやすさと、世界の深さに驚かされた。
膨大なボリュームのゲームでありながら、極短時間のプレイでも満足出来る密度の濃さ。
祠という小さなダンジョンでの、今までのシリーズを踏襲するようなパズルゲーム的謎解き。
時のオカリナ以来の伝統「注目」を利用した本格的な戦闘アクション。
噂通りの何でも出来る自由度。
細かい感想や内容については今更なので捨て置くとして、結論から言えば僕はこのゲームのエンディングを見ることが出来た。
祠は全てクリアし、真のエンディングを見るための要素は全て制覇して、半年近くかかったけれど、スタッフロールを眺めることが出来た。
半年近くかかったのは、一日辺りのプレイ時間が短い事と、平日にほとんど遊べない事が原因で、実際のプレイ時間は百数十時間といった所じゃないだろうか。
とにかく、昔ゲームが好きだった人にこそ遊んで欲しいゲームだ。
テレビの2チャンネルで表示される荒いドット絵と、スピーカーから流れるPSGのピコピコ音に魅入られていた僕らがあの頃思い描いていた理想のゲームの一端がここにある。
目の前にいるキャラに真っ直ぐ剣を突き出す事しか出来なかった頃から、頭の中では格好良い戦闘が繰り広げられていた。その時に出来たらいいなと思っていた事が、このゲームでだいたい出来る。
少しゲームになれてきた頃に考える、「ゲームのお約束」を破壊するようなプレイも、このゲームでならだいたい出来る。
祠の中の小さなダンジョンは、クリアまでの所要時間はとても短く、switch本体の特性もあって空いた時間に少しずつプレイする事が容易になっている。
段々とゲームする事に億劫になっていく要因の一つは、僕はこれを何度も書くが「想定される最低プレイ時間の長さ」によるものが大きい。電源を入れてから遊び始めて満足する、またはセーブまでの一区切りにかかる時間が二時間を超えるともう遊べない。せいぜい一時間が良い所で、欲を言えば30分以内がベスト。
今の日常で「連続して二時間以上ゲームをする」ほどの余裕はない。特にアクション性の高いテレビゲームは他に何かしながらのプレイが難しいので、本当に集中する必要がある。そういうゲームを、場合によってはリビングのテレビを自分一人が占拠するという状況も含めて長時間プレイする事が要求されると、遊ぼうという気がそもそも起こらない。
携帯ゲーム機やスマホゲーは、この辺の「隙間」に遊べるようになっているのが大変助かる。他の事をしながら遊べるし、遊ぶ時間そのものも短くてもいい。テレビゲームはこの辺がネックになって、どんどん遊ばなくなっていくという人は多いと思う。
しかしゼルダの伝説はストーリーを追う事が遊びの主軸になっておらず、楽しみ方を自分で選べるため、短時間でも十分満足出来るようになっている。最低プレイ時間は30分程度だ。電源を入れてから切るまでの時間で、30分あれば満足出来る。
今日は料理に精を出してみよう。
今日はいくつかボコブリンの集落に攻め込んでみよう。
今日は祠を一つ見つけ出そう。
今日はまだ走ったことのない街道を馬で走ろう。
今日はまだ登ったことのないあの山に登ろう。
この辺が一つでも出来れば、それで満足出来てしまう。
操作性の高さ、インタラクションの気持ちよさ、戦闘の適度な緊張感など、触っているだけで楽しいと思える事がまず第一にあるので、何をしていても楽しい。崖を登っているだけでも楽しいし、馬に乗って走っているだけでも楽しい。
視界に入る全ての景色にたどり着けるという事、そこに立ち入る事が出来る事が楽しい。
大抵の行動に対して、何らかのリアクションやご褒美が存在する事が嬉しい。
今作のゼルダの伝説は、ゲームが何故好きだったのかという事を、本質的な意味で思い出させてくれるゲームだと思う。
開発者としては「アタリマエを見直す」というスローガンの元、今までのシリーズのお約束やゲームとしての常識を打ち破る事を目標として作ってこられたというような話をどこかで読んだ。
これはつまり「ゲームってどうして面白いんだろう、何が面白いんだろう」という根源的な疑問に対して真正面から真摯に向き合ったという事でもあると思う。
そして出来上がった今作は、ゲームのプリミティブな面白さを剥き出しにしたままで、今の時代にマッチしたゲームのカタチを形成してしまっている。剥き出しにしたまま、という所がミソであり、恐るべき所でもある。
ボリュームの豪華さや、見れば見るほど感心する深い世界設定など、外側の「額」もそれはそれは見事な出来映えなのだけれど、ひとたび触ってみれば、一番に感じるのは「リンクを動かしていることそのものの面白さ」であり、強烈な「俺、ゲームしてる感」である。こんなにも短時間で濃密な、それでいて原始的な「遊びの楽しさ」を味わえるゲームはなかなかない。走り回っているだけで楽しいとか、幼稚園児が初めて遊んだゲームの感想かよと思うような事が、大人になった今になって味わえるとは思わなかった。
今でも現役のゲーマー諸氏にしてみれば、FPSなどの短時間で濃密なプレイ時間を味わえるゲームは他にいくらでもあるしオープンワールドゲームなんてもう山ほどございますよ、すでに鮮度は高くありませんよと反論したくなるだろうとは思うが、すでに現役ではない、新世代ゲーム機も家になく、ミニファミコンやミニスーファミにはしゃぎ、有野課長の活躍を楽しみにしているようなロートルは、そこまで新しいものに貪欲に挑むほどの気力も財力もないのだ。
ドラクエの最新作さえ発売日に買わなくなったようなポンコツゲーマー気取りは、新しい情報を貪欲に仕入れる事も出来ず、ゼルダの伝説という長年連れ添った戦友が示してくれる新たな地平を見るのが精一杯なのだ。
ついでに言うと濃密すぎるプレイ時間はそれはそれで疲れる。
プレイ時間の大半を極度の緊張状態で過ごさなければならないゲームまで突き進めてしまうと、それもちょっと敬遠したくなる。あとは「不正解」が蔓延したゲームの世界にも飛び込みたくない。
そもそもこのゲームには「不正解」という概念がほとんどない。何をしても良いというのは、何かをしてはいけないという事もない、という事だ。このゲームの開発者は、徹底してこの点に関して責任を取ってくれている。防寒着をどうやって手に入れたのかを何人かの経験者に聞いてみれば、その責任の取り方の一端が見えてくると思う。
効率を考えるなら選択肢は狭まる部分は当然あるだろうが、そもそもそういうゲームじゃないので、何をしてもいいし何かをしなくてもいい。ネット上でのゲームコミュニティでよくある「不正解に対する不快感」が蔓延することによる居心地の悪さはここにはない。一生懸命非効率な事をしてもこのゲーム内では許容される。答えにたどり着くのに正解がないのだから、不正解であるとか取り返しのつかない事であるとか、そういう事に怯える必要がない。本当の意味で「好きに遊べば良い」というゲームは、実はそんなに多くないんじゃないだろうか。
また、ゼルダの伝説BOWは緊張感と難易度に関してもさじ加減が実に見事で、特にゲーム全体の難易度に関しては最後に至るまで極端に上がっていかないようになっている。システム的にやれる事が全て出来るようになるまでの難易度の上がり方も急ではないので十分ついていけるし、そこからクリアまで、つまりラスボスまでは実は難易度はほとんど上がらない。多分一番難易度が高いのは「一つ目の神獣攻略」だと思う。神獣にはどんなギミックがあって、どんなしきたりがあるのかがわからないので、かなり戸惑う人が出ると思う。そこに至るまでにどれくらいの祠をクリアしてきたかにもよるのだけど。
ラスボスに至っては、そこまでプレイしてきた人なら適度に楽しく戦える程度の難易度で、何度も再挑戦してようやく倒せるとかそんな難しいものではないので、人によっては拍子抜けという人がいるかもしれない(難易度の話であり、その存在感とかシチュエーションに関するものではない。ついでに念のため書いておくとQTEの類いは一切ないので安心して頂きたい)。多分その前に陣取ってる敵の方がよほど厄介だが、そこは戦わずに進む事も出来るので自分で難易度の調整をすると良いだろう。多分このゲームで一番強いのはラスボスじゃなくてそいつであり、僕は未だに苦手だ。
日常の暇つぶし以上、修行未満の絶妙な位置にゼルダの伝説BOWは存在する。
小さな満足を繰り返しているうちに、そのボリュームに尻込みしていた僕ですら、最後の敵を倒し、エンディングを見る事が出来たのだ。途中で「もうハイラルを放浪する剣士の生活をしていれば満足ですよ、ええ」とか思いながら目的もなくウロウロするプレイを結構な期間続けてしまっていた僕ですら、クリア出来たのだ。
昔ゲームが好きだったよ、という人にこそ、このゲームを遊んで欲しい。
きっとクリア出来ると思う。最後まで遊べると思う。
数々のゲームをクリアもせずに途中で放置しまくっていた僕ですらクリア出来たのだから。
何年かぶりにゲームをクリアした記念に、思ったまま綴ってみた。
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Genre : ゲーム ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド